最後の桜



満開の桜を見ながら、ふと亡き父のことを思い出しました。


父は7年前にこの世を去りました。肝臓がんでした。
亡くなる5年前に、病気が見つかり、肝臓の半分を摘出する大きな手術をし、一時的には良くなったのですが、その後も入退院を繰り返し、ついにホスピス病棟で75歳の生涯を閉じました。
2003年4月14日のことです。 


父はゴルフが大好きで、いつも日焼けで真っ黒。もともとおしゃれな父は、いつもきれいな色のウエァーに身を包み、ゴルフを楽しんでいました。
現役で仕事もし、地域の活動にも参加して、多くの時間を社会貢献にも使っていました。
お酒も大好き、体力もあり、いつも元気で、パワフルで、ス―パーマンのような人だと思っていました。


そんな父が病気になるなんて、全く信じられないことでした。
そのころ大阪に戻っていた私は、自分の後悔のないようにと、すぐにパートの仕事を退職、父に付き添うことを決意しました。


父は、エネルギーの大半を外に向かって使う人だったため、およそ家庭的な人とは程遠く、私と父との関係はとても希薄で、私はそれまで父のことを何も知らなかったように思います。
そして、父も、母の言葉を通しての私しか見ていなかったのではないかと・・・今になって、はっきりとそう思います。


長い入院生活で、私は父と多くの会話をしました。
多分、病気になってから、一生分の会話をしたのではないかと思うほど。
父に寄り添いながら、私は父の生きざまを見たような気がします。


末期になり、身体を襲う痛みの緩和に、モルヒネを用いながらも、父は自宅で頑張っていましたが、もう限界と最後に入院した病院を見た時、私はこんなところで父を死なせたくないと、強く思いました。


湯川胃腸病院にホスピス病棟が併設されたという噂を耳にし、私はすぐに行動に移しました。
直接面談に行き、許可をもらうや否や、すぐに父を説得し、ホスピスへ転院させたのです。
3月の末のことです。


身体は病魔にむしばまれながらも、元気そうに振舞い、シャキッとスーツにネクタイ、それに似合う色の靴に身を包んだ父は、とても末期がんとは見えず、受付で「ところで患者さんはどこですか?」と聞かれたというエピソードまであります。


しかし、レントゲンを見た医師から告げられた言葉は
「今月を越せるかどうか・・・」だったのです。
「えぇっ!?  」
今月って・・・3月は残すところあと1週間しかなかったのです。。。


家庭的で、自由、とても温かい雰囲気のホスピスに入られたことを、父はとても喜んでくれ、緩和ケアにより、苦痛も和らぎ、ひとたび父は心と体の安定を取り戻しました。
奇跡が起きたのではないか・・・誰もがそんな気にさえなりました。


医師の予想は幸運にも外れ、父は4月を迎えることが出来ました。
桜が満開の昼下がり、妹が車いすで近くの神社に連れて行き、満開の桜も見ることが出来たのです。


しかし・・数日後
もうその日は近い・・・医師からついに告げられたのでした。
父の部屋を後にした夕暮れ、父が最後に見た、すでに散り始めた桜の木の下で、家族に報告の電話をしたことを今でもはっきりと覚えています。


風は少し生温かく、春の嵐のように強く吹き、桜の花びらを一気にさらって行きました。
私はその場にたたずんで、今まで目にしたこともないような豪快な花吹雪を、ずっと見ていました。


ホスピスに入ってから、3週間めの4月14日、父の病気との戦いは終わりました。
延命措置は一切取らないポスピスでの旅立ちは、本当に感動的なものでした。


緩和病棟とは言え、最後は呼吸の出来ない苦しさを訴え、傍で見ているのも辛く、手を握り、抑えきれない感情に、泣きだしてしまった私に向かって父は、
「もうすぐ良くなる」・・・と、私の頭を撫でて、励ますように言ったのです!!
父は最後の最後まで、あきらめず、生きようとしている・・・生き切っている・・・そう思いました。


みんなで父のベッドを取り囲み、父の息が、どんどん弱くなり、完全に止まるその瞬間まで、私はこの目でしっかりと見届けたのでした。
それは途方もなく悲しくもあるけれど、本当に感動に満ちていました。
自分たちで、息絶えた父の身体を拭き、父が本当に冷たくなるまで、父の身体を触れて、お別れをしました。


人が死んでいくってことはこんなことなんだぁ〜・・・って。
深い悲しみの中でも、立派に生きた、生き切ったとも思える父を、私は心から尊敬したのでした。
その場にいた全てのものが、温かく、優しく、感謝の気持ちが溢れ出し、ひとつになっていたような気がします。



桜の季節がくると、私は父を思い出します。


最後に見た満開の桜は、父の目にはどんな風に写ったのでしょうか。。。