与え過ぎない


バリから帰ってから、何事もなかったかのように平穏に過ぎていた我が家の日常に大波乱が起こり、心ざわめいた日々でした。
それもようやく終結、今思えば、一つの在り方から、別の在り方へ変化する転機になった出来事だったような気がします。
手放しと共に、心はとてもすっきりして、自由。今は大きな解放感を味わっています。


きっかけは子供たち ( といっても、もうすっかり成人した30歳と27歳の長男と長女 ) との関係の中での、ほんの些細な出来事を通しての意見の食い違いでした。
ほんの些細な出来事・・・今になるとそのように思えるのですが、その時の自分にとっては、人生に関わるほどの重大な出来事に思え、怒りや、悲しみの感情に翻弄されて、自分を見失ってしまったような気がします。


なんでわからないの?!


相手の態度や反応に、湧き上がった最初の感情は怒り。
愛情が大きい分、思いも強く・・・大切にしてきたからこそ、苦しみも大きく・・・
思いが伝わらないことへの怒りの裏には、悲しみや寂しさの感情が渦巻いていました。


子供の幸せを願う時、こうなって欲しい、こういう反応をして欲しいと思うのは、母親としては当然のことのように見えるけれど、でもそれは子供の気持ちを自分の思うようにコントロールしようとしていたことには違いなく。
子供の幸せを信じ、護り続けてきたけれど、本当にこれで良かったのか、自分の思いや言葉は、子供たちが自分らしい決断をする邪魔になっていたのではないか・・・私は・・・自分を責め、すっかり自信をなくしていました。


でも時間の経過とともに、いろんなことにも気がつきました。


私は精一杯子供を愛し育ててきた。
その子供も成長し、一人で生きていく力を身に付けた・・・それだけで私の子育ては大成功なのではないか。
愛されて育ったことで、きっと自分の子供にも愛を与えることが出来る親になることができるのだろう・・・それは確かに次の世代に繋げることが出来る。
まだまだ未熟に見える子供たちも、自分とは全く違う人格や価値観を持った一人の人間。
それぞれに必要な学びがあり、それぞれに与えられた成長の速度がある。
このままではいけないと先回りして口や手を出すのは、大切な成長の機会を奪うことになるに違いない。
自分の人生の責任は自分で負うものなのだから、本人たちを信じて任せよう。
私は、後ろから見守るだけでいい。


あきらめや投げやりではなく、ストンと自分の身体に落ちたように、本気でそう思えたのです。
大学を卒業した段階で、もう私の役割は終わったと思っていたけれど、本当の意味で終わることが出来なかったのはきっと私自身だったのですよね。


一方的に沢山の愛を与え過ぎ、相手の受ける器がいっぱいなのに、まだまだ与えたら、それは溢れ出し、受け入れることすらできないのは当然のこと。
いつもいつもいっぱいに満たされていたら、満たされている状態が当たり前で、足りなくなる不安すらなく、それ以上はかえってありがた迷惑にもなるものなんだ。
受け入れる準備が整ってこそ、自分が欲しいと思ってこそ、受け入れることが出来るんだろう・・・
そんな基本的なことにも気がつきました。


植物を育てていて、水や栄養も与え過ぎては、根腐れしてしまう。葉がぐったりして本当に足りなくなったときに与える方が、強く元気になることは知っていたけど、人間だって同じことがいえるのだなぁ・・・と、子供だけではなく、クライアントさんをはじめ、周りの人達との関係においてもも、全て同じことがいえるのでなかいかと、人との関わり方をも考えるきっかけにもなりました。


人を変えることなんてできない。
その人がその人らしくあるように願うこと・・・その人を丸ごと受け入れること・・・
頭では理解していたことなのに、自分の身内のことになると、いらない感情が邪魔をして、自分の思い通りにしようとしていた自分の未熟さも、今は許すことができました。


私が生きていく上で多くのエネルギーを使わなければならない場所は、人を変えようとすることではなく、自分の魂を成長させること、自分の内側に向かうことなのだからと、本当の意味で手放すことにしました。


我が家に起こった大波乱も、私にとって必要な出来事には違いなく・・・
大きな学びとなりました。


新たな気づきを胸に、自分の信じた道を真っすぐに歩んでいきたいと思っています。